2020年から三年間という設定でスタートした「都市と芸術の応答体(RAU)」が、2022年度をもって一つの区切りを迎える。予期せぬコロナ禍によってオンライン主体の取り組みにならざるを得なかった初年度・二年目と違って今年度は四度にわたる集合制作が可能となり、念願だった展示も行うなど、新たな身体的体験の中で新たな思考と実践が行われつつあるこのRAUという単位は今後、どのような展開や広がりを見せていくのだろうか。

ディレクター藤原・平倉、そして初年度からのゲストアーティストである三宅唱監督とともに今年度を振り返りつつ、この先のRAUの形について語る。

進行・構成:安東嵩史 写真:森本絢

「ロードムービー」の本質とは何か

──二年目の終わりの鼎談(*1)時に、柴崎友香さんとの話の中で「ロードムービー」というキーワードが生まれましたね。三年目はそれを踏まえてスタートしたわけですが、最初、三宅さんはあまりロードムービーに興味がなかったと伺いました。

藤原 そうそう、面白かったんですよ。鼎談の中で「来年、ロードムービーがいいんじゃないか」となり、ノリノリで、三宅さんに「どうですか?」ってふったら、意外と反応が悪くて。「ロードムービーかあ、あまり好きじゃない」みたいな感じで、それがまず予想外で面白かった(笑)。

藤原徹平

建築家

藤原徹平

1975年横浜生まれ。 横浜国立大学大学院 Y-GSA 准教授。フジワラテッペイアー キテクツラボ主宰。 一般社団法人ドリフターズインターナショナル理事。 横浜国立大学大学院修士課程修了。 建築や都市のデザイン、 芸術と都市の関係を研究・実践している 。主な作品に 「クルックフィールズ」、「那須塩原市まちなか交流センター」、「京都市立芸術大学移転設計」、「ヨコハマトリエンナーレ 2017会場デザイン」、「リボーンアートフェイスティバル2017会場デザイン」など。 受賞に横浜文化賞 文化・芸術奨励賞 日本建築学会作品選集新人賞など。

──三宅さんの、その反応の理由はどこにあったんですか?

三宅 RAUの一年目は「土木と詩」がキーワードでした。あまりにも自分と遠い言葉だったので当初は戸惑いながらも、その見知らぬ言葉と取り組むことに個人的な意義を感じたというのがあって。だから「ロードムービー」って言葉が来たときに、自分の周囲にあるジャンル映画のコンテクストがまとわりつくような気がしたんです。その言葉だけで、瞬間的にいくつか既存の固有名詞とか画面を思い出してしまう。そうすると今までのRAUとなにか変わってしまうんじゃないか、という抵抗感が最初にあったと思う。
とはいえ、RAUでやるからにはそのイメージや先入観とは違うところからアプローチするんだということを確認できたから、「じゃあ、まあやってみますかねえ」と。ただ、参加者もいわゆるロードムービーではないんだとあらかじめ意識する必要があると思ったので、それはスタート時に明確に言いましたよね。「ロードムービー、僕は面白くないと思っている」って。

三宅唱

映画監督

三宅唱

1984年北海道生まれ。一橋大学社会学部卒業、 映画美学校フィクションコース初等科修了。
主な長編映画に『きみの鳥はうたえる』(18)、『ケイコ 目を澄ませて』(22) など。
最新作は『夜明けのすべて』(2024年2月全国劇場公開予定)。

藤原 ロードムービーを好きな人が集まって作るんじゃなくて、その言葉はこれまでの「土木と詩」とか「土地と身体」と同じ、思考の入り口にすぎないんだってことを全員で共有してスタートできたから、よかった。逆に、これで「ロードムービー、いいね!」となって、この映画とこの映画を皆で見て……とかやってたら、今年の広がりはなかったかもしれない。

平倉 うん。そうでしょうね。とはいえ「ロードムービー」を定義しないまま「いわゆるロードムービー『ではない』」という話だけが存在している状態で、今年初めて参加する人もけっこういたから「じゃあ何するの?わからないよ」という混乱は一ヶ月くらいあって。6月に最初の「RAU試」(*2)をやってみて、ようやく見えてきた感じですね。

平倉圭

芸術学研究者 近現代美術、 パフォーマンス、 映画

平倉圭

1977年生まれ。横浜国立大学大学院Y-GSC准教授。国際基督教大学卒。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報 学)。芸術の制作プロセスにはたらく物体化された思考を研究している。著書に『かたちは思考する―芸術制作の分析』(東京大学出版会、2019年)、『ゴダール的方法』(インスクリプト、第二回表象文化論学会賞受賞)、『オーバー・ザ・シネマ映画「超」討議』(共著、フィルムアート社)ほか。

──これまでの二年でRAU的な蓄積を共有してきた人たちもいれば、今年からまっさらな状態で入ってきた人たちもいると思います。RAUでは毎度そこからみんなで思考を深めていくことになりますよね。その過程に、昨年までとは違いはありましたか。

平倉 今年は早い段階で深いところに行けた気がします。

三宅 大きかったのは、最初に「技の共有」が行われたことですね。それぞれの今までの歩みや仕事、得意なことなんかを10分で紹介し合うという、あそこで主体性が生まれた。ああいう、最初に自分の何かを場に持ち込むようなことが行われたのは、今年が初めてですもんね。

平倉 そうですね。

藤原 去年、一昨年とやってて「技の共有」が何しろ面白いし、重要ということがわかって。今年そこからはじめたというのは、すごく大きなことでした。ラーニング・コレクティブとして集まった皆の技を中心に一年間進めていくんだよっていうのを最初に言えたのがよかったかな。『どこの地方で育った』とか、そういうのも技ですよと。

三宅 あえて乱暴な言葉を使うと、RAUは手法のパクりパクられがOKな世界であるという了解が「技の共有」に含まれていて。他の人が今まで実践してきたことに興味をもつと、自分もやってみたくなる。「あ、それ私もやってみたい」ってなったら、すぐ試せる環境というのがよかった。同じ技を使っても、それぞれの使い方が違うからアウトプットにも違いがあるんですよね。それも含めて他人の技を使ってみたくなる欲望が全肯定されていたから、そのままその次に「Instagramで15秒、撮ってみましょう」という実践がしやすくなった。

藤原 その流れで、三宅さんに『イタリア旅行』(*3)を分析してもらったんですよね。「ロードムービーって、こういう構造として見られるんだよ」という。旅の途中で人間の心情や思考、行動が変わるのがその根本で、つまりA地点からB地点に行く間に人が変わるとか場所が変わるとか、変化を描くことが重要なんだということが理解できた。そこから、「では、人間にとって変わることはどんな意味を持つのか」という、抽象的なんだけど、具体的な問題に並行して突入できたのは面白かった。人間と土地の問題ってずっとRAUが扱いたいと考えている問題で、根本的には「人間と土地はつながっていない」「身体と土地はなかなかつながらない」という基本認識があるんですけど、その状態からつながることも変化の一つなわけです。馴染めなかった街をあるきっかけで急に自分の街だと感じるようになる、そんなロードムービーがあるとして、そこには風景論だけじゃなくて自分論も発生する。じゃあ、撮るべきは人間なんじゃないか、となる。

ただ、前に三宅さんも言っていましたけど、人間を撮るのは難しい。RAUでは二年間、人間にカメラを向けられなかった。それが二年目の後半から人間を撮る人が出てきて。その撮り方が、コップの水を飲むとか、コップを置くとか、中心がコップなんです。そこに何かヒントがあるなって感じがずっとしてたんだけど、今回、三宅さんの分析によって「変化を描く」というのが明確になってくると、あれは人間そのものじゃなくて、コップに起こってる変化を撮ってたんだとわかる。振動してない状態からしてる状態への変化とか。重さや匂いのように映像に映らないものはいろいろあるけど、映っているもの変化でそれを示すことはできる。そして、それを通じて人間の変化も映すことができる。そう気づかされた上で6月にいきなり、RAU試をやれたのは、すごくよかった。

平倉 そうでしたねえ。もう何年も前に感じられて、正確に思い出せない(笑)。

*1
2021年度鼎談その2「文章という新たな回路を得て、集団の想像力はどこに向かうのか

*2
2021年度から導入された、日々の議論を踏まえて試作を行うワークショップ。2021年度は2回、2022年度は4回(ベルリンでの自主企画も含めると5回)行われた。

*3
1954年に公開されたイタリア・フランス合作映画。イングリッド・バーグマンとジョージ・サンダース演じる破綻寸前の夫妻の、イタリア旅行の道中における心の動きを描く。ロベルト・ロッセリーニ監督は事前に脚本を役者に渡すことなく、撮影前日にそのシーンの分だけを渡していくことで両者の即興的な名演を引き出した。

「シナリオ」と「流れ」、そして人間を撮ること

藤原 加えて、今年はシナリオにそって演技をするという概念が持ち込まれたのが大きかった。二年目にも人を撮ることはしたんだけど、そのときは役割だけ定義して、出る人、監督する人、撮る人という三者がいるだけだった。でも、今年はシナリオがあったから、そこに「役者」という概念が成立した。
シナリオという概念は、6月のRAU試のときに出てきたんだよね。それを最初に提示できたのは、やっぱり二年間の成果だと思う。RAUはそもそも三宅さんの『無言日記』のメソッドを使うところから始まったけど、去年の後半に柴崎さんとご一緒する中で文学と映像のシークエンスの違いを考えて、「テキストはすごいぞ」という話になった。それで、最小限のシナリオを書いて「RAU試」をやるということを思いついて、まず三宅さんに『イタリア旅行』から着想したすごく短いシナリオをお願いした。そしたら、四行くらいのシナリオが来たんです。その時点でもうすごい!となって。この二年間の蓄積が、そこに凝縮されていた。あれだけ長い物語を、四行にすることができる。それがもう、めちゃくちゃよかったですね。

三宅 どんなシナリオにしましたっけ?

藤原 「AとBが散歩している/Aが何かを見つけるがBは気づかない/AとBが別れる/Aは来た道を戻る」

平倉 Aだけがなにか見つけちゃって、道を逸れていくっていう。

三宅 ああ、それくらいの情報量は作ったんでしたね。まだBがいた(*4)。

平倉 あと、そのRAU試のあとで三宅さんが「ロードムービーというのは流れるプールなんじゃないか」と投げかけたんですよ。

三宅 僕はずっと、藤原さんが「人間と土地がつながってない」とおっしゃってるのが全然ピンとこなくて。僕はつながっていると信じ込んでたので、「つながらないと映らないでしょ」くらいに思ってました。
ただ、RAUメンバーが街角で、例えば駅前とか橋の上とか撮ったのをInstagramで見ているうちに、「これ、流れるプールの中の人たちだ」と感じた瞬間があったんです。都市を歩いていると、ある程度定められた動線に沿って歩かされていると感じることがありますが、人は場合によっては道を変えることもできるし、変えられないこともあると思うと、流れるプールを思い出しまして。そのまま水流に流されている子もいれば、必死に逆らって泳いでいる子もいたり、流されずにただそこに留まっている子もいる、あの感じ。水はこの土地にはないけれど、でもここには流れがある。それを可視化するヒントとしてシナリオとか、テキストみたいなものがあればみんなで発見しやすくなるんじゃないかと思ったんです。

平倉 流れるプールの中で、何かが流れからちょっと逸れる瞬間。それがあるとロードムービーになるんじゃないか、という話でしたね。

三宅 「人間と土地がつながっていない」というのと近いかもしれませんが、流れるものと流れる場所……例えば川なら、流れるものと川底はつながってはいないけど、でも作用しあっていることは確かで。完全に離れているわけじゃないけど、確かにつながってもいない。

藤原 やっぱり、勇気を出して人間にカメラを向けないと人間の変化は撮れないんだなと、すごく思った。シナリオに「Aが歩いている」って書いてあるからAが歩いている状態を、「Aが何かを見つける」って書いてあるから何かを見つけたって状態を、それぞれ表現する。そのためには人を撮らざるを得ない。三年目にしてようやく人間を、シナリオによって撮ることが命令されているという状況の中で試行錯誤したのは、財産になりましたね。

*4 その後、12月のRAU試では、四行詩が「Aがやってくる/Cと交錯する/Aの道が変わる/そして──……」と6月時点よりシンプルになった。

フィジカルに集まることで“試し”が先鋭化した

──シナリオに沿って演技をするというのは、主観の映像を撮るよりも身体が顕在化する行為ですよね。初年度と二年目がパンデミックの影響でほとんどオンラインだった中、これまで以上にメンバーがフィジカルに集合できた今年だからこそ実現し得たことだと思いますが、それにより思考の質が変化したということもあるのでしょうか。

三宅  思いついたことをすぐに実践して体感できる場があったというのは、映画体験とか机上の議論とはまた違うレイヤーで、議論の速度が上がりましたよね。

藤原 今年はRAU試を6月の横浜国大、9月に黄金町と大阪の北加賀屋、12月にまた黄金町と、合計4回できましたからね。場所と集まったメンバーは違うし、たぶん全部に参加した人はいないと思いますけど。映像を作ったのは3回だね。4回目に試したのはフィールドツアーと映画館での上映で。

マネージャー山川 4回目も、展示が始まってから自主的に映像を作ってるメンバーが複数いました。

藤原 じゃあ、4回やったのか。映像作品を作ることを4回もやれたっていうのは、すごい財産ですね。1回目に参加できなかった人が悔しくて2回目にすごいのを作ったりとか、皆の中でのコンテクストの蓄積もありましたし。4回だけでなく、ベルリンで自主的に集まって作ったメンバーもいますから、横浜、大阪、ベルリンと世界中でやれたのは、やっぱりRAUの面白さです。

平倉 回数が多かったぶん、「試し感」もより先鋭化しましたよね。特に4回目のRAU試のときに思ったんですけど、「いい結果を出す」ことより「試す」ことを優先できる環境になっていたのが、すごくよかった。

藤原 6月にRAU試をオンサイトでやったあとに、夏休みに向けて、皆がもう一度それぞれの場で試したんですよね。そこで、大貫友瑞さんが『阿蘇』(*5)というすごく面白い作品を作ってきたんです。「お母さんと熊本旅行しました」みたいなある種のホームムービーだったんですが。
三宅さんが「ホームムービーこそ面白い」(*6)って発言したことがあると「ユリイカ」に書かれてましたけど、本当にそういう感じのものをぽろっとだしてきたんですよ。あの影響力が半端なかった。それを皆まねして、夏休み、お盆休みを撮ったんですよね。あれがもう、今年を決定的に変えた。

三宅 あの時期は、ある意味で危機でもあって。これ以上同じことをやる必要はないし、「次の秋、何を試せるの?」とみんな思ってましたよね。僕もノープランだったし。そこに、夏休みの皆さんのお盆ロードムービーの数々があまりに面白くて、さらにやることがないんじゃないかと。あそこで満足してたら、きっと今年はお盆で終了しているんですよ。でも、みんなそれでドライブがかかった。あれは超えられないでしょ、と思いながらも、超えようとして。

藤原 みんな個人の移動を撮ってたから、まさにロードムービー。家族のもとに帰省したり、お盆っていうのはそもそも死んだ人が帰ってくる時間だから、生や死も含んだ移動が撮られちゃってて、移動についてこんなに深く撮られた作品群があったら、もうロードムービーとしては超えられないわけですよ。

三宅 観光や散歩じゃ勝てないですからね。

藤原 そんな感じが9月にはしてました。北加賀屋と黄金町で撮るという企画を作りはしたものの、絶対夏のロードムービーには勝てないな……と。でも、北加賀屋の街が面白すぎて。産業の港町で、海抜ゼロメートル地帯(*7)でね。タクシーに乗ったら「うちらの街、ゼロメートル地帯やから!」って言うんですよ。「堤防なくなったらもうおじゃん。皆死ぬねん」って。
すごくインパクトがある街で、なんか撮れるぞ感あったんだけど、なかなかみんな滞在の時間が合わなくて、コレクティブに動けなかった。だけど、そんな中でも熱く頑張って撮った人たちが何人かいて、荒削りにすごい作品ができた。すると、できなかった人が悔しい気持ちになる。すごい物語を偶然いた街で見つけたのに、それに向かう準備が全然できてなかったことが悔しくて、「どうにか残りの時間で作品を作りたい」ってみんなに火がついたよね。最後の12月のRAU試に向けてそれが作品として昇華していって、最終的には夏を超えていると思うんだけど、すごいことだと思う。知らない街の物語なのに自分のロードムービーよりも深いものが撮れたことは、みんなのクリエイターとしてのジャンプにつながった気がする。

平倉 僕は黄金町のほうを見てましたけど、最終日に北加賀屋で作ったものを見て、「やられた」と思ったんです。黄金町のほうが集まりやすい人が多かったから、集まったという事実だけで作品としてのまとまりが先取りされてしまって、「映像としてどうか」というのを突き詰めきれてなかった。あと、黄金町をその時はただ「黄金町」という街としか捉えてなくて、大きな地形のなかで見ていなかった。でも、そこで三宅さんは“一人RAU試”をやってて、一人で黄金町から野毛山に登っていくルートを撮ってましたね。そこで生まれた『ROAD MOVIE』(*8)と北加賀屋の作品を黄金町のRAU試で撮った作品と比べて見たときに、こっちはまだ考え足りてなかったな、と痛感しました。
そして、その挫折感を通して見えてきたのが、三宅さんの作品に写ってた、黄金町という行政区分を超えた大きな周辺地形の、すごい高低差。北加賀屋の作品にも巨大な橋が写ってるし、そういうすごく大きな地形として捉える街の姿が、終わった後にようやく見えましたね。

*5
大貫友瑞『阿蘇』(2022) RAU試2022上映版 3分28秒

*6
「ユリイカ」2022年12月号に掲載された川﨑佳哉氏の論考「ホーム/ムービーの可能性 三宅唱『やくたたず』をめぐって」にて、三宅監督の〈大雑把にいえば、映画はいずれ100億円映画かホームビデオのどちらかに二分されると思っていて。中間の映画があってほしいけど、正直そこで映画ごっこして負け戦するくらいなら、面白いホームビデオの可能性のほうが楽しそうだ、とおれは思っちゃうんです〉〈本気で、ホームビデオこそ、と思ってる〉といった発言が引用されている(p.227)。これらの発言は『THE COCKPIT』(2015)公開時、webメディア「nobody」
でのインタビュー「Do Good !! 『THE COCKPIT』三宅唱(監督)&松井宏(プロデューサー)interview」内でなされたもの。
詳細記事 : www.nobodymag.com

*7
大阪湾岸一帯は江戸時代に河口の砂洲だったところを埋め立てた人工島であり、水害には脆弱。大阪市発行の水害ハザードマップによれば、仮に中心気圧910hPa(室戸台風級)の台風で高潮が発生した場合、ほぼ例外なく0.5メートル〜3メートル(一階床上)の浸水の恐れ。住之江区の東半分と大正区にいたっては、ほぼ全域が最低でも3メートル〜5メートル(二階床上)以上の浸水の恐れがあると示されている。試算のモデルになった1934年の室戸台風では、大阪市だけで沿岸部を中心に1062名の死者・行方不明者が出ている。
詳細記事 : www.city.osaka.lg.jp

*8
三宅唱『ROAD MOVIE』(2022) RAU試2022上映版 4分28秒

「アースムービング」という決定的な言葉

──そうしたお互いの課題感が、RAU試の4回目、「ロードムービーをする」と題された12月の黄金町につながっていったと。

藤原 そこで何を試すか、って問題になって。単なる展示として三年分の成果を世の中に見せるというのは、我々にとっては新しくない。そのために毎日ギャラリーにいるなんて、単なる労働だから。「そこにいること自体が試すことである」とするためには、街歩きしたらいいんじゃないかと思ったんです。一年目の終わりに三宅さんと横浜の町をツアーして面白かった記憶があったから、ツアーすること自体を作品にしたらいいという話をして。

黄金町の付近一帯の平坦地は、吉田新田(*9)という江戸時代の埋め立て地です。もともと、二つの丘に囲まれた平らなところがあるその対称性が、僕はずっと好きだったんですよ。「そこに何かがあるな」って感覚だけがずっとあって。でもそれは単純に、釣り鐘型の対称的な地形が面白いというだけの直感だった。そこを2ルートでフィールドワークするってことだけ決めて、あとはマネージャーに任せようと思ったら、「初日、藤原さんが案内してください」って無茶振りに無茶振りを返された(笑)。「初日はディレクターでしょ」って。何も準備してなかったので、前の晩に慌てて事務所にあった吉田新田の地図や物語を引っ張り出して再読したら、すごく面白くて。

この場所を、材木商の吉田勘兵衛という人が埋め立てたんです。江戸時代は、埋め立てをして社会のために土地を作った人が名字帯刀が許されて後世に名を残せる時代だった。江戸時代、徳を積み財を築いた人が最後にやりたいのは、社会貢献だったみたいなんですよ。いい時代です。そこで、吉田勘兵衛は人生をかけて埋立地を探した。見つけたのがこの湾で、埋め立てようとしたけれど一回失敗した。そしたら明暦の大火(*10)で江戸が燃えて、材木需要で巨額のお金を稼げたからもう一回埋め立てにチャレンジして……という話が面白かったので、「この話をしよう」と。
実際に歩いたら土木的にも面白くて、土地を埋め立てて段階的に作った形の履歴が、大地のうねりとなって現れてるんですよ。つまり、自然の海岸線を人工化していったときの形の重なりがかすかに残ってる。海運のための川だったから、橋の下に舟を通すために橋付近の両岸の土地が盛り上げられている。吉田新田全体も全然平らじゃなくて、海抜ゼロメートルから2メートルくらいの間でうねってたんです。うねりと崖が作るそのダイナミズム、勘兵衛が湾を埋め立てて、それによって土地の形が変わったというのが、黄金町のすごく大きな土地の物語だった。それを一夜漬けで見つけた(笑)。そのあと、新しいルートを平倉さんが深堀りしていってくれたんですよね。

平倉 僕は9月に三宅さんが撮った野毛山の作品にすごく感動したから、12月のRAU試でもあれをもっと経験したいという気持ちはありました。でも、ツアーをやると決まった時も「やるんだな」くらいに思ってて、あんまり主体的に考えてなかった。そうしたら、藤原さんが無茶振りされたタイミングでマネージャーから「翌週は平倉さんが」って言われて。

藤原 さらなる無茶振り(笑)。

平倉 それで藤原さんのツアーに参加したら、とてつもなく面白かった。今まで「黄金町」としか見てなかった現在地が、突然すごい巨大な、この横浜の埋め立て地とそれを取り巻く坂と崖という巨大な地形の中に位置づけられて。めちゃくちゃ面白かったし、めちゃくちゃ焦りましたね。「やばい、来週自分じゃん」と。藤原さんのツアーが面白かったから翌週はもっと人が来るだろうと思ったし、「このままだと藤原さんの話をリピートすることになりかねない」と思って、そこから一週間、ものすごく吉田新田をリサーチしたんです。
それで藤原さんがガイドしてくれた、吉田勘兵衛が掘った井戸のところにある石碑をあらためて読んでみて。「この坂を削って海を埋め立てました」って書いてあったんですよ。日ノ出町の裏の「天神坂」と呼ばれてる崖は天神山を人工的に削った崖で、この場所ともう一箇所、現在の南区中村町辺りを削って釣鐘状の新田を埋め立てたと書いてある。「この、もう一つ削ったって場所を探さなきゃ」と。僕のルートはもともと藤原さんと同じ野毛山を登って下りるだけのコースだったんですけど急遽変えて、そこから吉田新田の反対側、蒔田駅を中村町の方に抜けて根岸の台地にぶつかる二つ目の崖に登って下りるっていう、三時間くらいのロングコースを作って。それもRAU試が“試し”だからできたことです。あらかじめ告知している内容と違うけど、そっちをやるべきだなと。
僕も横浜育ちで、ずっとこのへんをよく知ってるつもりだったけど、この土地でそういうダイナミズムを経験したことはなかった。まさにロバート・スミッソンのような「アースムービング」をやったすごい造形者、かたちをつくった人間として吉田勘兵衛という人がいたんだということが、その一週間で体感できました。藤原さんのツアーに応答するように自分の“試し”ができたのが、本当に面白かったな。あと、それを経て三宅さんの9月の『ROAD MOVIE』を見直すと、野毛山から下りてきて、最後のショットが、黄金町から対岸にかかる橋の地面の膨らみなんですよね。崖を降りてきて、またそのうねりが膨らむところで終わってた。衝撃でした。

藤原 「あれは、三宅さんは京急を撮ってたんじゃなかったんだ」って、後から気づきました。そこに走ってる電車を撮ったんだな〜と思ってたけど、その下にある地面のうねりを撮ってた。やばいと思った。

平倉 それを、何ヶ月も遅れて再発見する経験でしたね。

藤原 「アースムービング」って言葉が最後に出てきたのはすごくて、今もう、RAUを総括しかねない言葉になってます。一年目に出てきた「土木」というのは土地の形質を変更することだから、要するにアースムービング。それだけじゃなく、ロバート・スミッソンとか夏目漱石とか、松尾芭蕉なんかも「要するにアースムービングだ」と言える。こういう大きい概念がでてきたのは、皆にとって軸になるだろうと思う。

平倉:初年度に少し出てきた言葉ではあるんですが、その時は「土木は英訳したらふつうcivil engineeringって言うけど、土木作業車のことをearthmoving machineっていうらしいから、RAUで土木というときはearthmovingかな」というくらいの話だった。それが三年目で、大地に向き合う技として体感されたんです。

藤原 技でもあるし、理学的な概念でもある。地球や大陸が動いているという意味も含まれるし、理学とか工学とか芸術をつらぬく研究の軸になる可能性を持った、すごい強い言葉だなと思う。アースムービングとして建築を捉える、アースムービングとして芸術を捉える、アースムービングとして映画を捉えるというふうになって、「これはアースムービングかどうか」という評価の尺度が生まれてくるかもしれません。
RAU試のときに、山を削って作った道の下に埋まってる水道管があるという話になって、耳を澄ますと水の音が聞こえた。その音も、アースムービングの結果生まれた音なんですよね。単なる抽象概念じゃなくて、本当に人工的に大地を動かしたから、今そういう音が聞こえる。そして、耳に聞こえるという意味では、映像に撮れるんです。ただの坂や地面じゃなくて、その下をちょろちょろ流れている見えない水の音を聞くことで、人が変わるって物語はあり得るから。実際に、歩いていて水の音を聞いて、ハッとその場所の意味や見方が変わるということが我々にもあったわけだし。

*9
現在の横浜市中区と南区にまたがって広がる平坦地。1656(明暦二)年に着工し、吉田勘兵衛が十一年の歳月をかけて完成させたこの地は江戸に対する重要な食糧供給源となっただけでなく、のちの国際港・横浜の礎にもなった。

*10
1657(明暦三)年に発生した大火災。現在の江東区、台東区、文京区、千代田区東部のほぼ全域にある多数の大名屋敷や市街地の大半を焼き尽くし、江戸城の天守も焼失した。死者数は諸説あるが、3万から10万とされている。これを機に大名屋敷や寺社の当時における郊外への転出が始まり、江戸の都市圏は拡大していく。

芸術が回避してきた「大きな物語」

──そうした気づきとともに、コースもどんどん増えていったわけですね。最終日の、平倉さんの“健脚コース”も後から追加されたものだと聞きました。

平倉 久保山コースですね。藤原さんから「久保山、面白いよ」って言われて。

藤原 会期中にまた全然別のことを思いついちゃって。明治七年に、法律で日本は火葬になるんですよ。明治維新のときに政府が神道を国の宗教だとした結果、一旦は土葬が主流になったんですが、死体が多すぎて土葬場所が不足し、腐臭で東京の都市衛生が崩壊しかねなくなったので、仕方なく火葬にしたんです。そのときに東京の青山墓地など、無宗教の墓地っていうのが何箇所か火葬場と一緒に作られて。その一つが久保山にあって、今はそこに吉田勘兵衛が作った寺や、勘兵衛自身の墓も移設されています。それは、戦後にGHQが吉田新田の一帯を接収したからです。
人や建物が、政治によって移動することがある。そのときに、その根っこみたいなものも土地から切り離されてしまう。まさにロードムービーで現れてくる問題でもありますよね。根っこがなくなってしまうのは多くの場合、政治的に移動させられてしまうからなんです。そんなふうに誰かのまさにアースムービングによって消えてしまった土地の記憶やルーツがあれば、消えたそのルーツを探してさまよう人の移動もある。「土地とつながってて当たり前だ」って三宅さんはさっき言ったけど、土地とつながりようもない人っているんですよ。人為的なアースムービングによって、根がもう、文字通り根こそぎ消されている状況がある。
そのこと自体が人間の物語として立ち上がると、ある政治的な理由で土地が変形することによってさまざまな記憶が移動したり消えるという、大きな問題が見えてくる。世界中にある話なんだけど、そういうことが実は横浜にもある……とポロッと言ったら、「試そう」となって、久保山コースが誕生しました。

平倉 久保山も野毛山も根岸の台地も、全部約12万5000年前の間氷期に、氷が溶けて現在より約40メートル海面が高くなった「下末吉海進」(*11)のときに堆積してできた同じような高さの台地なんです。そのあと海面はぐーっと下がって深い谷が作られますが、再び今度は約7000年前、いまより海面が4メートル高くなった「縄文海進」のときに沖積層が堆積し、現在の低地になる。横浜の海側は、この標高約40〜50メートルの「台地」と数メートルの「低地」という二つの高さでできている。吉田新田は、この沖積層の堆積層が間に合わなかったところを勘兵衛が人工的に埋めてできた低地です。
台地は雨で削られ、そうしてできた窪んだ場所、いわゆる谷戸に人は集まって住んできた。で、久保山コースの前半ではあえてこの台地の南斜面を、谷戸の凸凹を何度も登り下りしながら体感するように早足で歩いて。そうして山上の尾根にたどり着き、反対側の斜面に行くと巨大な久保山墓地が広がってる。墓地は地図上では平面に見えるけど、実際に行くと久保山の北斜面に四つの谷にまたがって広がっているんです。とてつもない。また建ってるのが家じゃなくて同じような形態の墓だから、谷の起伏がものすごく抽象化されて知覚される。あれはすごい経験でした。

──日本の近代化とともに造成されたこの墓地には関東大震災の際に横浜で亡くなった人の慰霊碑がありますが、その傍らには、その時に虐殺された朝鮮半島出身者の慰霊碑も建っています(*12)。帝国日本、つまり我々の近代の政治的な力学によって土地から引き剥がされ、デラシネ(根無し草)にされた人々がそこにもいる。

藤原 そうなんですよね。黄金町って「風俗街がアートの街に変わった」というような物語で語られがちなんだけど、実はもっと大きな人類史に関わるような物語が根っこにある場所です。人間が都市を作るためにアースムービングし、その後明治維新が起きたり、戦争に負けて占領されたことによって墓地とか寺とかも含めてのアースムービングがまた起きたとか、そういうことのほうが実は大きい問題なんだけど。そういうことを芸術が問題にしてないということがよくないと、僕は思う。そうした大きな物語をちゃんと題材にしないと、体と土地がくっついていかないという感じがしています。

三宅 今ここで話を聞いていても、ツアーに行きたかったという気持ちでいっぱいです。地図だけもらってるので、しかるべきタイミングで行かねばと思ってますし、今地図を託されているという感じですね。きっと何かまた、応答できそうならしてみたいと思います。

*11
約12万5000年前、間氷期の温暖化によって起きた大規模な海進。日本各地の陸地に海が進入し、そこに土砂が堆積して広い台地を形成した。関東平野の原型はこの海進で形作られた。

*12
1923(大正十二)年9月1日に発生した関東大震災の混乱の中「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を投げ入れた」といったデマが流れ、関東一円で多数の朝鮮人が虐殺された。立教大学名誉教授の山田昭次によると、横浜では在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班によって計算されただけでも神奈川鉄橋で500人、子安から神奈川停車場まで150人、新子安町で10人、神奈川警察署で3人、警察署の立地する御殿町付近で40人、浅野造船所で48人、その他の場所でも多くの朝鮮人の遺体が発見されている(『関東大震災時の朝鮮人虐殺 虐殺の国家責任と民衆責任』創史社、2003)。遺体の発見されなかった者も多数いるが、約半年後に「虐殺鮮人数百名の白骨 子安海岸に漂着」(『やまと新聞』1924年2月10日付)という報道もあり、相当数が河川や海に遺棄されたものと思われる。

スクリーンサイズで映像を作る/見るということ

平倉 ここまでは昼のRAU試の話。今回本当にもりだくさんで、夜のRAU試っていうか、ジャック&ベティ(*13)でRAUのこれまでの作品の傑作選と三宅さんの作品を上映させていただく企画も行いました。

藤原 映画館での三宅さんの実験新作の上映は、僕が最初に三宅さんに声をかけさせていただいたときから自分に課してたミッションだったんです。

平倉 いやあ、もうこれが衝撃で。僕はジャン゠リュック・ゴダールの映画をパソコン上で超細かく分析するという博士論文で自分の仕事をスタートしたんですが、それもあって、映画館という場所を相対化するというか「映画は映画館で見られなくてよい」っていうある種の立場をとってきたんだけど、今回覆されました。RAUの作品をこの三年間ずっとパソコンのモニターで見てきたわけですけど、だからこそそれを映画館で見たらものすごくて。完全に映画館派になってしまった(笑)。

三宅 それはすごくいい話ですね。いいでしょ、映画館(笑)。

平倉 例えば、山縣瑠衣さんの『運転の練習』っていう作品(*14)があって。運転免許を取りたてで、お母さんに横に乗ってもらって山道をおそるおそる運転しはじめる。その時「わ〜〜〜!」って顔をするのが、画面の右端にちょっとだけ写ってるんだけど。スクリーンで見たら、ちょっとのはずのその顔がすごく大きいんだよね。だから、本当に一瞬ちらっと見えるだけの表情に、客席にいるとズガーン!と貫かれる。「スクリーンってこれかあ!」と。別にこれまでも映画をスクリーンで見てこなかったわけじゃないけど、RAUの作品はミーティングでノートPCの画面でくりかえし見てきたから。それがスクリーンに映ったときに、いかに今まで見えていなかったか、という衝撃を経験しました。それを経たうえで、三宅さんがRAUで撮ってた『土手』(*15)とか、野毛山を撮った9月の『ROAD MOVIE』をスクリーンのサイズで見ると、これがまたものすごくて。

藤原 「ごめんなさい、全然わかってなかったです!」って気持ちになるよね(笑)。三宅さんの作品は、パソコンの画面で編集していても、劇場のスケールに合わせて身体化されたものになっている。「三宅さんの身体、やばいな」と思いました。

平倉 三宅さんは最初からスクリーンのスケールで撮っていたんだなって、完全にあの時わかりましたよね。あと、三宅さんはRAUの他の人の作品もスクリーンサイズで見てたんだなということもわかった。三宅さんはたかすかまさゆきさんの『スイングビル10階』(*16)にRAUのミーティングでものすごく反応してましたけど、僕はモニターで見たとき正直あまりわからなかったんですよ。でも、スクリーンで見たら完全にかっこよくて。光の変化なんですよね。一日一日の光の劇的な変化がこれでもかっていうくらい鮮やかなシークエンスになっていて、スクリーンで見ると完全に成立してた。

藤原 三宅さんの中では映画をパソコンで見てるときも、映画館で見ているときみたいに変換されているんですか?

三宅 一応、普段家で映画を見てるときも、そのつもりで見ようとはしています。でも、結局映画館に行くと「ああ、もう全然違うわ」って毎回思わされますね。自作に関して言えば、だいぶ気をつけてはいるので、サイズ感も時間の感覚も、だいぶ誤差はなくなった気がするんですが。けど、他の人の作品はまだまだです。例えば去年、ジョン・フォード作品をたくさん見ていたんですが、ソフトを購入して家で見てめちゃくちゃ感動したあとに、シネマヴェーラ渋谷で特集上映が始まったので「だいぶ見たけど、映画館でも一応見よう」と思って行ったら、もう、全然違ったんですよ。「俺、なんのために苦労して家で見てたんだろう」と思って、ソフト捨てたくなった(笑)。

藤原 「映画館で見る」という経験の素晴らしさ、改めてその没入感はやばいと思ったし、ある種の実験映画を映画館で見ることの面白さがすごくわかった。なんでもっとやらないんだろうと思いましたね。

平倉 確かに。

藤原 映画館という場所は今、世の中的には衰退していると言われてるけど、それは映画館の使われ方が限定的だからなんじゃないかと思う。劇映画を高品質で見ることはできるけど、それ以外にもっと違う使い方をすればもっと多様な人に届くんじゃないか。爆音上映祭みたいな方向もあるが、例えば実験映画と劇映画を一緒に見ていくことで、映像というものの可能性をもっと発見してもらえるんじゃないかと思いますね。そうすれば映画監督がもっとホームムービー的な小品も作れるし、そういうものとセットで見られるのは映画館しかないという感じで「試す」場になるんじゃないかなと思う。

*13
横浜最後の名画座「ジャック」と唯一の独立系ミニシアター「ベティ」の二つのスクリーンを併設した映画館「シネマ・ジャック&ベティ」。終戦後、この一帯はGHQに接収されていたが、1952年の接収解除直後に映画館「横浜名画座」がオープンした。名画座の老朽化に伴ってそれを改修する形でジャック&ベティが1991年に開館し、何度かの経営危機を経つつも2007年以降、現在の梶原俊幸支配人が運営している。

*14
山縣瑠衣『運転の練習』(2022)RAU試2022上映版 6分41秒

*15
三宅唱『土手』(2021)RAU試2022上映版 5分2秒

*16
たかすかまさゆき『スイングビル10階』(2021)RAU試2022上映版 3分20秒

映像作品をどう見る/見せる/考える?

──映画館の使われ方、転じてキュレーションのされ方が限定的であるという意味では、美術作品としての映像の展示のされ方についても考えるべきところが多そうです。

藤原 RAUのいわゆる展覧会は今年初めてやれたんですけど、以前の展示で「空間をあれこれ工夫してもしょうがない」ってことがわかったし、シンプルに見るのが一番いいなと思ったので、今回はみんなの作品を大画面で見せる部屋と、これまでやってきたワークショップの実験映像をたっぷり見せる小さな暗い部屋を作りました。
たっぷりといっても厳選する必要はあるので、最初に「ギャラリーで映像作品を見られる限界って何分くらい?」って話に皆でなったんです。僕も正直、美術館で映像作品って何分も見られない。「長くて30分くらいじゃない?」と言ったんですけど、結局、いい作品が多すぎてマネージャーたちから「4時間になった」と(笑)。確かにリストを見ると切りようがないので、一周4時間かかる小さい部屋を運用したんですよ。そしたら2時間くらい見てくれる人がいたりして、本当にありがたかった。いつまでも見られる中毒性もあるし、見れば見るほどいろんなアプローチの可能性があるってことを感じてくれた人が多かったみたいで、反応がよかったんですよね。
RAUの映像をそれだけ見てくれる人がいる一方、美術館で僕が30分しか見られないってことは、美術館の映像展示の仕方が何かおかしいんじゃないか。テーマとか、これが何の映像なのかってこととか、あとは映像として質の高いものをちゃんと展示しないと、ついていけなくて飽きちゃう。映像を展示するってことについて、もうちょっと考える必要がある。

マネージャー染谷 来場者には最初にRAUやRAU試のこと、会場での展示のコンセプトや四行詩のことを説明してたから、それだけ見られたんじゃないかと思います。

藤原 ギャラリーに張り付いてもらって必ず説明をしてもらったことで、どう見ていいか、お客さんの理解がある状態だった。劇映画ならまだしも映像作品は、どういう作品なのか、どう撮ったかというイントロダクションなくして見られないですよ。
手間もかかるんだけど、現代美術にそういう補助線的な説明は必須だなと思いました。逆に言えば、これは何をテーマにしてるのかとか、何を問いとして持っているかってことがわかれば、なんでも面白いんだと思う。「こういうことを面白いと思って、こういう映像を撮ってます」って説明して「なるほど」と思ってくれれば、そこから先は2時間だって見られる。

だからこそ、どんな問いを立ててやってるのかに関してはすごくわかりやすく説明する必要がある。今回は四行詩があるから「これが全部の作品に共通するシナリオです」と説明した上で見てもらったら、みんなすごく驚いてた。全然違う作品群に見えるのに全部同じシナリオでできていると知って、見る人は面白がって、何かを考えてくれる。常にその場所に人がいてそういうやりとりがあり、だから面白いんだってことがある。どうやって常にその新しいやり方を試せる状態を作れるかというのは、運営として大事な精神なんだろうなと思います。

三宅 恵比寿映像祭に参加したり、YCAMでビデオインスタレーション作品を制作したときにも、改めて映画館という空間が持つ、かなり強制的な構造、つまり暗闇を作って全員集めて座らせて……という力のもの凄さに改めて気がついて、意識して、20世紀のうちに「映像を見る空間」の正解は出てしまっているんだなと思いました。あれに勝てる空間は相当に頑張らないと作れないし、美術館での展示を前提とする映像作品は、よっぽどその空間で見る根拠と結びついてないと、映画館での鑑賞に対抗する力を持ち得ない。おそらく大抵の現代美術の文脈で展示されている映像作品は、映画館で見たほうがいいに決まってると僕は思う。だからこそ、映画館では難しいようなイントロダクションやエデュケーションだとか、上映空間の新たな設計が必要ですよね。

藤原 そこは本来的には美術館とかギャラリーの得意技で、部屋が何個かあるから、その構造を使って理解を深めていくわけです。いわば空間に流れがあることが、映画館にはない美術館とかギャラリーの特徴なんです。「シナリオがあって、ビジョンがあって、問いがあって、問いに対する実験があって、こういう作品になりました」って、段階を踏んでコンセプトを理解させることができる。逆に言うと、ビデオインスタレーションには向いてないんですよ。映像だけを見るなら映画館のほうが映像に関しては圧倒的にわかりやすいし、美術館がどこかの映画館と提携してアート作品を深夜に上映して、それを美術館のチケットで見に行く方が絶対面白いと思う。

三宅 そうですね。

藤原 劇映画とビデオインスタレーションを比較してみると、インスタレーションはスポンサーもいないし、尺に対する自由がある。それに比べて劇映画は制約も多いけど、それゆえの面白さがある。相互の関係性が違いがわかれば新しい映画のあり方も見えてくるし、新しい映像作品のあり方も思いつくと思うんですよね。
どうすればいいかと言うと、端的に見比べればわかる。建築設計するときも模型を二つ作って見比べるように、それ以上にわかりやすい観察方法は存在しないんですよ。かつては作品間の共通点や相違点は、そんなふうに圧倒的な数を見てる批評家が発見してテキストで伝えてた。だけど、今はNetflixみたいないくらでも見比べられるメディア環境が存在することによって、そういう批評はもう機能しなくなってる。とはいえ、平倉さんみたいに新しい言葉とか概念を与えるという、言葉にしかできない仕事をするための批評は必ず必要なんです。
そう思うと、実験映画と劇映画を同時上映することを通じて、実験と批評の相互関係を考えるきっかけみたいなこともRAUではその入口くらいは示せたんじゃないか。そこまで含めて、この上映企画はすごく手応えがあった。三年間でやりきったかなと思ってたけど、まだまだいろんなことを試せることが最後のRAU試でわかって、自分としては次の展開に対してすごく栄養を蓄えられたと思います。

平倉 RAUという括りで三年間やってきたけど、この集団にだけ共有される言葉ではない、根本的な概念にいくつもたどり着けたような気がする。それは本当に大きいですね。

切実でないと「試す」ことすらできない

──藤原さんがおっしゃった「次の展開」ですが。文化庁の三年というプロジェクト期間としてはひと区切りとなりましたが、今後、RAUという思考と実践の単位はどうなっていくのでしょう?

藤原 かつてはクリエイターのプラットフォームというのは映画や建築といったジャンルに囚われたものだったけど、RAUはノージャンルのプラットフォームなので、それをどう活用するかというのが、次の展開として興味があります。例えば、三宅さんが映画を作るときにRAUがどう作用するのか、僕が建築を作るときにどう作用するのか……というだけじゃなく、陸くん(マネージャー山川)みたいに、一回RAU試をやればそれが即作品になるような人もいる。だから、もうRAUはどんどん、みんなが自走的に試して、作っていく場になるのが手っ取り早い気がする。

平倉 三年目でよかったのは、RAU試をやって、みんながそこから勝手に何かを持って帰るさまがよく見えたことですね。みんな自分の探求したいことをRAUの場で試して、それを自分の仕事の現場に持って帰っていった。そういう場になったことと、それ以前に、さっきも言ったけど何でも試せる場所であるという性格付けが明確になったのがすごくよかった。

藤原 そう、だからRAU自体は成果じゃないんですよ。実家であり道場という感じかな。RAUでやったことをさらに自分の領域に持って帰って、別の所で成果を目指せる。だから、RAUでは思うように実験できるし、試せるし、人の技を真似できる。そういう面白さがあるので。
今年までは文化庁の助成金だけを原資にやってきたけど、この関係性をもうちょっとうまいやり方で……正直、一つの年度って単位でやらなくても、RAU試が面白いことがわかったから、やれそうなときに「一ヶ月RAU試やります」とか言って、もともとのメンバーに追加メンバーを募集してやっていったりしてもいい。その信頼関係がコアなメンバーにはあるし、継続的に、ライフワーク的にできるなと思う。いろんなものを持ち帰りながら試す場所とか、本気で試す集団みたいなことをメディア化していきたい。

三宅 僕がRAUの三年間で学んだのは、気合が大事だっていうこと(笑)。ベルリンでメンバーが作った作品なんて、「この六人がベルリンに集まっているというこの時間を撮りこぼさないぞ」っていう気持ちをバシバシ感じた。RAU試が面白かったのは、皆が本気でやったからだと思います。
試すって、どこか言い訳めいた「これは実験だから、クオリティは微妙でもいいんだ」みたいなぬるいニュアンスを含む場合もある。見る人も「まあそうだよね、試作でしかないよね」みたいに許容してしまう。そうなると嫌だなって、実は最初は思ってたんです。そうしたら全然違った。“試し”と言いながら、全部本気。本気を出すというのはなかなかおっかないことだけど、それができる場にRAUがなってるのがすごいと思う。「ああ、本気でやらないと試すことすらできないんだ」って、けっこう目を開かされました。

藤原 本気というのは、やっぱり切実さに裏打ちされているものだと思うんです。陸くんが今年度はシンガポールでレジデンスしてたので、ここでシンガポールの話をすると、リー・クアンユー(*17)はシンガポールの建国宣言をしたとき、国会で泣いたんですよ。マレーシアから追放されて、水源もなければ経済も産業もない小島で、やぶれかぶれの独立宣言をしながら。そこから、海抜ゼロメートル地帯でいかに生きるかっていう都市計画を策定していく。陸くんはそこに着目して作品(*18)にしようとした。「ゼロメートル地帯でしかないシンガポールにある川って何なんだ?」っていう。本来流れないわけですよね、高低差がないから。だけどそこを川と呼んで、水を通すために必死に川を作って、おまけに河口を塞いでダムにしてその水を確保しようとする。その切実さにカメラを向ける。そうすることで初めて見えてくる、自分の街の切実さもある。「ゼロメートル地帯で生きろ」って言われたときの絶望を理解してシンガポールや、例えば三宅さんも『ケイコ 目を澄ませて』(*19)の舞台にした東京のゼロメートル地帯である荒川流域を見ると、その見え方は全然変わる。切実さが違ってくる。切実に人間が生きているっていうことの中に僕たちの大事にしないといけない物語があって、普段の街にあるそれを見ることができるようになる。
翻ってその目で渋谷を見てみると、今度はシンガポールの切実さとは違う渋谷の物語がある。じゃあ、渋谷の切実さとは何なのか。そういうことを一つひとつ考えられる議論の場に、RAUはなっている。ひいては人間とか、自分そのものに関する研究の場になっているからこそ、RAUはすごく面白いんだと思います。

三宅 出身地やゆかりの地じゃないところでこそ、それがやれたらすごいなと思います。出身地の特権って最初からある程度ハイコンテクストでいられることだから。そうじゃなくて、今後、縁もゆかりもない土地で、そのレベルで、切実さや緊急性を発見して、何かを捉えてみたいと思います。そういう仕事をしたいなあ。RAUをやってなかったら、そうは思わなかったはず。

藤原 RAUの最初の問いとして「都市とか土地といった実はとらえどころのないものに、クリエイターやアーティストはどう向き合うのかを考える必要があるんじゃないか」というものがあった。土地と人間に向き合って、あるいは政治的な問題が土地をどう動かしてきたかという歴史としてのアースムービングを捉えることができるならば、三宅さんが言うように、自分が生まれ育ったところではないところでも大きな物語を探し出して何かを描くことができるんじゃないか……というところまでは、この三年間で試せたなという実感があります。

*17
1923〜2015。シンガポール初代首相。中国語表記は李光耀。19世紀以降イギリス領マラヤとして存在していたマレー半島〜ボルネオの諸州は1963年、マレーシアとして合同し、独立を果たす。シンガポールもここに参加したが、マレー人がマジョリティである他の構成国と違って中華系移民である華人が人口の大半を占めるシンガポールは中央政府のマレー人優遇政策と折り合うことができず、1964年には両派の衝突も発生。1965年、マレーシアのアブドゥル・ラーマン首相はシンガポール追放を決定し、一方のリー・クアンユーは8月9日に分離独立を宣言した。平坦な島嶼であり自前の水資源すら確保できないシンガポールはこれ以降、開発独裁とも称される強権的な政権運営によってインフラ整備を進め、発展を遂げる一方、政治、教育、文化などに関わるあらゆる制度や社会政策も「開発第一」のかけ声のもとに統合・合理化していくことになる。

*18
『Lines and Around Lines』(2022)
マネージャーの山川と、RAU2020のメンバーでもある武田侑子のユニットTransfield Studioによるレクチャーパフォーマンス+ツアーパフォーマンス作品。近代以降の都市開発と河川の関係に着目し、ゼロメートル地帯で人間がなんとか生きる切実さを、シンガポールと東京・荒川という異なる都市を並べることで語った。
詳細記事 | www.transfieldstudio.com

*19
三宅唱監督による、2022年12月16日公開の日本映画。聾のプロボクサー・ケイコと彼女を取り巻く世界を三宅氏の映画理論と身体性を総動員して描き、各方面で絶賛を受ける。本作を中心に据えた『ユリイカ』2022年12月号「三宅唱特集」にはRAUディレクター・平倉圭の論考も掲載されている。

異なる領域に探求を続ける仲間がいることの価値

──どんな場所にもその場所なりの切実さが存在することを理解して初めて、固有性を無視した十把一絡げの言葉ではない、新しい概念定義の形が可能になる。「アースムービング」というのはまさにその端緒だと思いますが、そうした探求がこの先のRAUを考えることにつながってくるのかもしれませんね。

藤原 RAUという運動体が今後存在するために必要なのは、原理を提示することと、実際に試してみることによって更に原理を磨いていくこと。原理とは言ったって、プログラムの中でいろいろな応答があった結果、何回かバージョンが変わって今のものになっている。だから、常にみんなに対して原理を提供しつつ、示された原理に応答して試してまた原理を変えていくという、その両方の関係を構築できれば、あらゆるジャンルにおける心臓的な存在にRAUがなり得るのかもしれない。それが、今の時代におけるスクールというものなのかなと思います。中心に誰かがいるゼミ的な形じゃなくて、もうちょっとアメーバ的なスクール像が描けるかもしれない。それだったら、今後も続けられるかも。

平倉 RAUでは例えば「崖とは何か」っていうことがくりかえし問われたりする。それを言葉の語源から攻めたり、実際の地形から考えたり、映像で撮って編集して考えてみたり。そうやって複数の方向から「崖を定義するにはこれがあれば足りる」っていう切り詰め方を試していくということが、RAUでは何回も起きていた。坂とは何か、詩とは何か、土木とは何か、物語とは何か、道とは何か、ロードムービーとは何か……。本当にたくさんの概念について根本から考えました。RAUがこの先どう続いていくかはわからないけど、「定義する」ということがとても重要な運動としてありました。それを大事にしたいですね。
もう一つ、自分にとってすごく大事だと思うのは、とにかく試せる場所だということです。よく現代美術でも「プロセスを見せるのが面白い」みたいなことが言われたけど、そういう、プレゼンテーションのためのプロセスじゃなく、純粋に探求のための“試し”の場所。それを確保できるということがものすごく重要。この重要さをちゃんと守りたい……というか、この重要さを世の中に増やしたい。自分たちのために増やすだけじゃなくて、世の中にいっぱいあるといいなと思う。この世の中にはただ試せる場が少なすぎるし、「成果のプレゼン」でこの世界が覆われてる。それは本当につまらないから。

藤原 プレゼンテーションはいらないかもね。

平倉 そう。そのことをすごくはっきり示している活動だと思う。

藤原 リサーチもいらない。

平倉 そう。運動や探求になっていない、プレゼンの準備のためだけのリサーチはいらない。

藤原 そういうことは本当にやりたくない。探求だけをやり続けて死にたいと思いますね。

三宅 僕はRAUに参加するまで、ある種の大きな価値観に対する違和感を抱えつつ、それを言語化できなかったんですが、それが少し言葉になったというのが大きなことだった。
それが何かというと、作品づくりがまさにプレゼンテーションとか、あとは「固定する」ことになっているんじゃないかっていうイメージなんです。でも、RAUに参加して「いや、やっぱり違うじゃん」って。すべては「崩れ」(*20)だし、アースムービングだし……おそらくあらゆるものは、あくまでも流れている途中の、崩れている変化の途上にあるもので、その上で僕らが一瞬捉えているにすぎない。それはその瞬間だけを固定するためではなく、その前後の流れもまるごと捉えることなのだ、というような価値観がはっきりした。我々は弱いからゼロメートル地帯に生きていると不安になるし、ついつい自分の生だとか今だとかを固定したくなる。でもそうじゃない、流れの中で生きているんだっていうことを踏まえた上でものをつくることが探求なんだと思う。

世の中は何かを固定したり位置を決めてレッテルを貼ったり、カテゴライズしたり、それを壊そうとする気配を抹消しようとしたり無視したり、そういう力学に溢れていることを日々痛感するわけです。そういうものが全部なくなるべきだ!みたいな青臭いことはこの歳になるとさすがに思えないけれど、少なくとも自分の近しいところは、全然違う流れの中で世界を捉えられたら幸せだなと思ってる。RAUによって、そのことが明確になった。でも、この先の流れの中でその価値観も変わるかも知れないし、それでいい。常に真剣に試したり言い換えながら進められることが楽しいですね。

藤原 青山真治さんが亡くなって、蓮實さんが新聞に「真に孤立してた」って書いたときに、すごく青山さんのこと書いてるなと思った。孤立には強さが必要なんですよ。それはすごくしんどいから青山さんはお酒をいっぱい飲んで人生を縮めちゃったんだけど、一人で立つということは作家として非常に重要なこと。孤立しなければ独創は生まれないわけだから。でも、だからって人生を縮めてほしいとは思わない。そういう人こそ長生きしてほしい。そういう時に、「これがいいんだ」っていうふうに自分を支えてくれる誰かの存在が必要で。それが自分の業界とか組織にはいなくても、RAUがジャンルを超えて原理について探求する場であれば、安心して自分を孤立させることができるんじゃないかと僕は思う。一人で立つために、自分とは異なる領域に同じような探求の仲間たちがいることは、とても貴重です。その場所がどうあり続けられるか、形は変わっても存在し続けられるかという思いがディレクター、言い出しっぺとしてありますね。
だから、来年度以降のあり方を今、マネージャーたちと一緒に考えてます。来年度は平倉さんがサバティカルでニュージーランドに行ってしまうんです。不在感、移動というのは面白いなと思っていて。テーマも「サバティカル」にしようかなと思ってるんですけど。サバティカルって面白いじゃないですか。自分の居場所から強制的に移動して視点を変えるって、すごく面白い。

平倉 何か見つけてきたいですねえ。

藤原 というわけで皆さん、サバティカルをどうRAU試化するか企画中なので、来年以降もご期待ください(笑)。

*20
RAU初年度において、三宅監督が「すごかった」と紹介した、幸田文の随筆(講談社文庫 1994)。自然に崩落した山地をめぐり、時間とともに変化していく地形の諸相に己の人生観を重ね合わせた、随筆の名手・幸田の異色作である。